フューチャーリレーション株式会社、代表取締役の古川雅純と申します。この度は、私たちの求人にご興味を持っていただきありがとうございます。
皆さんは何かしらのきっかけでこの文章に出会ったのだと思いますが、今一度私たちのことや当社の価値観に共感してくださる方々にご応募いただきたいと思い、この記事を制作しました。
当社は全部で〇人。まだまだ小さな会社です。だからこそ、会社のことを知っていただくには私のことを知っていただくのが一番の近道だと思っています。なぜなら、弊社のように小さな組織では、「会社の価値観=社長の価値観」であると考えているからです。
そこでこのページでは当社が誕生したプロセスはもちろん、私自身がどういう生き方をしてきたのか、どんな価値観を持っているのかをじっくりとお伝えしたいと思っています。是非、私のことを知っていただき、少しでも感じる部分がありましたらご応募ください。
お坊ちゃんだった幼少期、いじめっ子だった小学校時代
私は、東京生まれの千葉育ち。江戸川という大きな川を挟んで東京とお隣の市川市は行徳という街で、父と母の三人家族で暮らしていました。父は、祖父が開業した日本橋の呉服店に勤めていました。日本橋の呉服商というと、とても格式高い家柄に見えるでしょうか。
実際、私が幼いころはそれなりに余裕のある暮らし向きだったと思います。母は専業主婦で、お花などの習い事もしていました。結構優雅ですよね。3歳の時に祖父が亡くなり、父がそのまま後を継ぐことになりました。レコード集めが趣味の父は、僕には優しかったですね。歳を取ってからの子どもということもあったのでしょう。母の方がよっぽど怖くて、結構叩かれていた記憶があります。
小学校時代、私はいじめっ子でした。腕っぷしが強いといいますか、とにかく同級生にプロレス技をかけては泣かせたり。陰湿ないじめということではないですが、ケガをさせてしまうこともありました。今では本当に申し訳ないと思っていますが…。
同級生の親御さんが子どもを連れて家に飛び込んでくることなど日常茶飯事。玄関口で対応する母にクレームを入れながら、一緒に出てきた私を鬼のような目で睨みつける親御さんの迫力は今も記憶に残っています。
それでも勉強の成績は学年でも上位でした。母が厳しい人だったこともあり、当時まだ珍しかった中学受験を念頭に、早い時期から進学塾に通っていました。本人にはまったくその気はなく遊んでばかりだったのですが、せっかくだからテストくらいは準備して真面目に受けようと思っていたのだと思います。授業中もよく手を挙げて発言していましたし、少々手荒な性格ではありますが、良くも悪くも目立つタイプの子どもでしたね。
行き詰まる家業、ボクシングとの出会い
友達と離れたくなかった私は、親を説得し中学受験はせず。学区内の中学校に進学します。この中学時代は、思い返してみてもかなりハードな3年間でした。
まず、呉服店の経営が一気に傾きました。いわゆるバブルが弾け日本中が不景気になったのです。徐々に経営が厳しくなって、母が店を手伝うようになり、それでも行き詰って…できることは手を尽くしたのだと思いますが時代の流れには逆らえません。
父母の仲もどんどん険悪になっていきました。多感な頃ですし、一人っ子の僕は父と母の喧嘩で家の雰囲気が悪くなるのがたまらなく嫌でした。ちょっとでも空気が悪くなると自分が仲裁を買って出たりと、子どもなりに全神経を集中させて必死でしたね。
それでも夫婦仲はなかなか改善しません。もともと酒癖の悪い父は飲んで帰る日が増え、酔っぱらっては母に暴力をふるうようになります。あの頃は父が帰ってくるときの足音が聞こえると憂鬱でした。
中学校にもなると、周りの友達の中にはグレるというか、不良に走る人たちも出てくるじゃないですか。私の場合、そんな余裕はありませんでした。家族仲を成立させることに必死でそれどころじゃない。やんちゃをしている友達を「よくそんなことしてる余裕があるな」と冷ややかに見ていたと思います。小学校時代の自分からは想像もつきませんが。
何かすこし暗い話になっていますが(笑)、中学校時代は悪いことばかりではありませんでした。自分にとって人生に影響する出会いを経験しています。それがボクシング。
中学2年生の時、友達から「昨日の大橋の試合見たか?」と急に聞かれたのです。「見た見た!すごかったよな!!」と返したものの、1度もボクシングの試合なんて見たことはありません(笑)
大橋秀行というボクサーが世界戦で勝利し、それまで21戦連続世界戦敗退を続けていた日本人ボクサーの不名誉な記録を阻止したという試合でした。テレビではかなりの盛り上がりだったようです。何とかばれないように会話を続けていると、時間を空けずにまた何かしらの試合が放送されるらしいということがわかってきました。正直全く興味はないのですが、見ておかないと今後の友達関係に影響しそうです(笑)
そうして人生で初めて見たボクシングが辰吉丈一郎の試合でした。若い方はご存知ないかもしれませんが、今もカリスマ的な人気を誇るボクサーです。彼をきっかけに私は一気にボクシングにのめりこむようになります。
もともとプロレスラーに憧れていた時期があったのですが、体格に恵まれていなかったこともありその夢をあきらめていました。でもテレビの中では、自分とそう変わらない体格の選手がスポットライトを浴びて世界を相手に戦っている。カッコいいじゃないですか。さらにその試合に勝利した辰吉がリング上で親への感謝を口にしていたんですよね。それも何だかぐっときてしまって。
「よし、俺はボクシングで世界チャンピオンになろう」と心に決めました。
早速ジムに通い詰めたいところですが、父の店は倒産寸前でそんなお金はありません。おもちゃのグローブと自分でつくったミットを持って、夜な夜な学校に忍び込み、友達とミット打ちをやっていました。青春ですね(笑)
やがて中学3年になり受験を考える時期になりました。相変わらず勉強は出来る方だったので、いくつかある選択肢の中からその時好きな女の子が進学を決めていた城西大学付属高校に行くことにしました。どちらにせよ勉強する気はあまりなかったので…。
挫折を知った高校時代、そしてプロボクサーへ
高校に入るとまずはバイトに明け暮れます。もちろんジムに入るお金を稼ぐためです。僕には意中のジムがありました。そこの会長が伝説のボクシング漫画「明日のジョー」の丹下段平のモデルになった人で、一度見学に行ったときに、あまりにも自分のイメージするボクシングジムそのものだったので絶対にここで強くなる!と決めていたのです。
1年生が終わるころにはお金もたまり、めでたくジムに入会します。何年か越しのボクシングジム。嬉しくて仕方なかったのですが…半年くらい経ち、僕はボクシングから離れることになります。
きっかけは視力。ジムの人に僕の視力が悪いことがバレてしまったのです。当時0.2くらいだったと思いますが、プロテストに合格するには0.6以上が必須。「これじゃプロは無理だな…」とジムの人がこぼした言葉が耳に入り、目の前が真っ暗になりました。
世界一になると決めて、家庭の雰囲気が最悪な中でも手作りのミットで練習し、バイト代を貯めて…ようやくスタートラインに立てたと思ったのに。若者には残酷な現実です。
自分を支えていたものが折れてしまった私はジムから遠のき、友達と遊び惚ける毎日が続きました。当時はダンス人気が凄くて。友達と夜な夜な街中の鏡のある建物の前で練習していました。金曜はクラブに行って踊ってはナンパして。でもまぁ今思うとそれも青春かもしれないですね。それはそれで楽しかったですよ。
それでもやはり、ボクシングは辞められませんでした。遊んでいたのは1年くらいですかね。3年生になる頃には再びボクシング漬けの毎日が始まります。何というかやっと雑音もなくボクシングに打ち込めていましたね。大学なんて行く気はさらさらありません。ただ親がどうしても大学には行ってくれと言うので1枠だけあった指定校推薦の明海大学を選びました。
大学時代は本当にもうボクシング一筋。ほとんど学校にも行ってなかったんじゃないかな。練習漬けの毎日を積み重ねて、二十歳でプロテストに合格することができました。嬉しかったですね。
親にも感謝しています。父は僕が19歳の時にガンで亡くなっていました。呉服店は大きな負債を抱えていたものの、日本橋の土地を売却することで何とか相殺できたのは幸運だったと思います。母が実家の花屋を手伝いながら大学卒業まで面倒を見てくれていました。
その後はイタリアンレストランでアルバイトをしながらボクサーとしてのキャリアをスタートし、25歳で引退しました。運命を感じて入ったジムも、きちんとしたトレーナーがおらず思うようなトレーニングや試合ができませんでした。歯がゆい思いもしましたが、当時はジムの移籍はご法度。それと一目ぼれした会長は、やはり人間的に尊敬できる人だったので環境を変えることもしませんでした。そうこうしているうちに腰のけがを発症し、やがてボクシングを続けることが難しいと感じるようになっていったのです。世界一になれなかったことは残念です。ただ、中2で決めたプロボクサーの道を短い間でも歩んだことは、今でも後悔はありません。
セカンドキャリアの模索
とはいえ、ボクシング一筋だった自分にとってセカンドキャリアは真っ白。何をしていいかわかりません。誘われるがまま友人のご両親が経営するパスタ屋さんに正社員でお世話になることにしました。月給は10万円ちょっとでしたが、家から歩いて3分くらいだったし、以前やっていたバイトと似通っている部分もあるし、とにかくありがたかったですね。
パスタ屋さんといっても、ご飯のおいしい喫茶店みたいな気取らない感じで居心地もよかったです。常連さんもしっかりついていたし、マスターとママがとにかく仲が良くて。50代くらいだったと思うのですが、ママが店の外を掃除しているとガラスの向こうの店内からマスターが手を振っていたり。新婚みたいですよね(笑)。出前担当の私は、配達の道中にAMラジオを聴くのがもっぱらの楽しみでした。少しでも長く楽しみたいから、オーナーに交渉してどんどん出前の範囲を広げてもらっていました。やる気があるのは悪いことではないと、自分に言い聞かせていました(笑)
ただ、この仕事も1年くらいで辞めることになります。仕事を始めて半年くらい経ったころでしょうか、皿洗いをしながら、ママがぼそっと「古ちゃん、ここだともったいないね」ってこぼしたのです。ハッとしました。
自分は確かに繁盛店のスタッフとして日々忙しく働いていますが、お客様はみんなマスターやママに会いに来ています。店のヘルプとして機能できても、お店が繁盛する役には立ちません(もちろんママは純粋に僕を買ってくれての一言だと思いますが)。
ボクサー時代のような熱い気持ちを、今度は仕事で感じてみたい。そう思うと、そのまま店に残ることはできませんでした(マスターがあまりに良い人だったので切り出すのに半年かかりましたが)
このお店には後日談があります。マスターやママのことが好きだったし、何より近所なので退職してからもよく顔を出していました。パスタの後に、サービスで出してくれるコーヒーを飲みながら近況を報告するのが楽しみだったのです。
ある日、いつものようにコーヒーを飲み終わり、そろそろ帰ろうかなと思った時のこと。マスターが見当たりません。多分荷物でも取りに店の奥の自宅に入っていたのでしょう。声をかけてから帰ろうと思いしばらく待ったのですが、全然戻ってこないので、その日は失礼することにしました。
その2日後、クモ膜下出血でマスターが亡くなったと連絡がありました。あまりのことにただただ声を失うばかり。後悔のない人生を生きようと思うのはもちろんのこと、今目の前にいてくれる人に一生懸命であろうと思わせる出来事でした。
怪しげな勧誘とサラリーマンキャリアのスタート
パスタ屋さんを辞めてから、私のキャリアは再び真っ白になりました。ボクサーを辞めたときと同じ。何をしていいかわかりません。とりあえず高額の派遣バイトをいくつかやっていました。そのうちの一つが、Yahoo!BBのモデム配布の仕事です。
当時はインターネットが急速に一般家庭に普及していた時期。その先陣を切っていたのがヤフーでした。家庭のパソコンとインターネットをつなぐモデムを無料で大量に配布し、毎月の通信料やポータルサイトへの流入で稼いでいたのです(最近は同じようなビジネスをスマホでやっていますよね)。
その一兵卒として北千住でモデムを配っていた時のこと。向こうから歩いてきたスーツの男性に声をかけられました。
「お前、なかなかいい目をしてるじゃないか」
嘘みたいですが本当の話です(笑)。
マンガでもボツになるようなお決まりのセリフにポカンとする僕に、その男性はさらに話しかけてきます。
「社員なの?」
「いえ、ただのバイトです」
「そうか、じゃあウチの会社に来いよ」
どこかの社長かと渡された名刺を見ると営業一課とあります。どこまでも胡散臭い‥。
あまりに急な話にペースを握られっぱなしで、電話番号を教えてしまいました。その日のうちに電話が掛かってきます。急な話で断り切れなかったという面もありますが、その日は父の命日で、何となくご縁を感じたこともあり、とりあえず後日一度会って話を聞くことにします。
ゆっくり話してみると、意外とちゃんと話の分かる方でした。成り行きで、僕はその時感じていたことをポツポツとお話してみることにします。小さいころからボクシングで世界一になることが夢だったこと、色々と遠回りをしながらプロボクサーになったこと、夢半ばで引退して働いてみたもののボクシングのように心を熱くする仕事に出会えていないこと…。
一通り話を聞いたと、その男性がこんなことを聞いてきました。
「大きい会社、中くらいの会社、小さい会社。どこでも行けるとなったら君は何を選ぶ?」
そんな質問されても、会社勤めの経験もない私にはよくわかりません。正直にそう伝えると、「大きい会社は偉くなるのに時間がかかる。小さい会社は倒産のリスクがあるぞ」と続けてきます。「じゃあ中くらいの会社ですかね」と答えると(というか、そう答えざるを得ない)、「OK!じゃあうちに来い!」
今思い出してもよくわからない展開ですが…とにかくこうして僕はとあるリフォーム会社でセールスマンとしてお世話になることにしました。
営業職としての経験、そして独立へ
入ってみると、これがなかなかのブラック企業。月に2回くらいしか家に帰れません。10人程の中途同期はあっという間に僕だけになりました。ただ、当時の上司がとてもいい人で。僕を昇進させるために色々と動いてくれていたのです。この人の下では辞められないなと思いながら仕事を続けていくうちに、営業でトップになることができました。当時25、6歳。少しずつ社会人らしいキャリアを歩み始めたころでした。
こうして入社数年が経ったころ、リフォームから太陽光パネルを扱うセクションへの転籍を命じられます。転籍後も成績はトップ。それなりに自信をもって過ごしていました。そんなある日、後輩が入社してきます。
暴走族の総長をやっていたという彼、開口一番「ここにいる人、全員眼中にないんで」と経歴に違わぬ威勢の良い挨拶をかますではありませんか。ムッとしましたが、営業ですから営業成績で会話するしかありません。お望み通り(?)、最初の期の営業成績で叩き潰してやりました。
すると今度は向こうから「飲みに行きませんか」と声をかけてきます。意外なお誘いでしたがサシで飲むと何だかんだで意気投合し、それ以降、期ごとの営業成績で勝った方が奢るという謎約束まで交わすようになりました。
それから少し経ち、会社から太陽光事業から撤退するとの通達を受けます。突然のことに驚きましたが、もっとびっくりしたのが元総長の後輩がボロボロと泣いていたこと。「本気でやっていたのに悔しい」などと、可愛いことを言っています。
意外な一面もあるものだなと思っていると、くるりとこっちを向いて「俺と一緒に太陽光の会社やりましょう」と言ってきました。こんなに短い間に3回も驚くことになるとは…と思いましたが、確かに会社の行く先もちょっと不安ではありました。さらに偶然にも、その日も父の命日。何だか再び縁を感じてしまい、結局私は退職を選びます。29歳の時のことでした。
フューチャーリレーションの誕生
こうして立ち上げたのがフューチャーリレーション株式会社です。太陽光発電や蓄電池、省エネ機器の販売を軸に、グループ会社に千葉電力という電気小売事業も運営しています。 (ちなみに元総長は、デニムの会社を立ち上げる!といって2年ほどで辞めました笑)
私たちの強みは提案力。それを支える戦略の一つを人間力戦略と設定しています。人間力戦略とは文字通り人の力を最大限に活かすこと。お客さまとの繋がりを大切にしていくことを指しています。
世の中には「当社の強みは人です」という会社は星の数ほどあります。「どこかで見たことのあるセリフだな」と感じた方もいるでしょう。これには私たちの痛い経験があります。
12~3年前、新卒採用を始めたばかりのころです。当時15名ほどの社員がおり、その年に8名の内定を出しました。かなり思い切った増員ですが、事業も伸びていましたし成長の意思を強く持っていたのです。
ところが春をまたずに15名の社員が2名になってしまいました…。理由は様々でしたがあまりにもピンチです。内定者には一人ひとり状況を説明し、4名が入社を決めてくれましたが、それにしても業務が回るわけがありません。新規開拓はもちろん、既存のお客さまのフォローもままならない中で、お客さま1件1件に連絡をしていったときのことです。
お詫びの言葉をお伝えする僕に、お客さまが話すことは前任担当者との思い出話ばかりでした。あの人とはこんな話をしたとか、こんなことがあってねとか。もっと沢山叱られると思っていたのに、楽しそうにお話しするお客さまを見て「あぁうちの営業マンは本当にお客さまに愛して頂いていたのだな」と感じました。
この気持ちは裏切れないな、と思いました。お客さまからすれば、どの会社から買っても電気は電気。そう変わりはないはずです。人間として素晴らしいからお客さまは私たちを選んでくださったのだとしたら、これからもそんな人間力を磨きながらお客さまに貢献していかなければならない。 それ以来、社員一人ひとりの人間力を「営業力」「行動力」「お役立ち力」「他喜力」「思考力」の5つに定義し、それを伸ばす制度や仕組みを整えています。
そんなに難しいことばかりではありません。例えば、誰しも感謝の気持ちを持っていますよね。しかし、持っているだけでは意味がありません。絶対に行動に移した方がいい。そこで当社では、新入社員の初任給で必ずご両親にプレゼントと感謝の言葉もしくは手紙を送るように奨励しています。そんなことかと思うかもしれませんが、行動に移すだけでその感謝は確実にご両親にも伝わるし、その感謝は明日からの関係性にもより良く作用するはずです。
他にも部下を持つ人には部下とサシ飲み手当を支給したり、外部研修でビジネスマナーや心理学、問題解決、プレゼンテーションなどビジネスパーソンとしての素養を養う機会も設けています。
積み重ねた知識と経験が生む提案力
私たちのもう一つの強みは提案力です。太陽光発電は、2011年の東日本大震災以降に政府が設けたFIT(固定価格買取制度)によって国内に一気に広まりました。太陽光によって生み出された電気を国が一定の価格で必ず買い取るという制度で、安定収入が見込めるので企業がこぞって参入したので。しかし私たちは制度が始まるずっと前、今年で18年間太陽光事業を運営しています。積み重ねてきた知識や経験が違うのです。
太陽光関連は基本的に売り切りといって1回売ったら取引が終わることが多い商材です。しかし、私たちは月に1回必ずお客さまとコンタクトを取ります。代表的なのが平均日射量の情報をお送りすること。通常太陽光パネルは設置前に直近30年間のエリアの日射量をシュミレーションするのですが、当然、月によっては予想を下回ることがあります。そんな時に前年同月などより細かいデータが手元にあると、「今月だけ下回ったんだな。来月はあがりそうだ」といった形で、安心できると思うのです。
18年間、太陽光と太陽光を利用されるお客さまに向き合ってきたからこそ、お客さまの期待や不安が手に取るようにわかるのです。これはお金では買えない財産ですよ。こうして築いた関係性をもとに、既存のお客さまからの売上も伸びています。太陽光パネルを買った後に蓄電池のご発注も頂く、というようなリピート購入が多いという事実は、お客さまから頂いた信頼を何より表しているのではないでしょうか。
新規営業の経験で、ビジネスの素養を養ってほしい
新卒で入社いただいた方には、まずは新規営業を経験していただくことにしています。いわゆる飛び込みや電話によるご紹介ですね。もしかしたら敬遠される業務かもしれませんが、この経験は商売の原点であり全てが詰まっていると考えているからです。
営業の中でも一番厳しい手法であることは、経験者として僕もわかっています(というより世の中の経営者の殆どは経験しているはずです)。どうやったらお客さまに話を聞いていただけるか、聞いていただいた後に何をどんな順番で話せば関心を惹けるか…厳しさを感じながら繰り返す試行錯誤や、販売まで完結させる経験をすることがすべてのスタートだと考えています。逆にそれを知っている人には、安心して大きな仕事や部下を任せることをお願いしやすいと思います。
そういった意味で、当社で活躍している人材には体育会系の方が多いですね。ガッツが必要なことはもちろんですが、筋の良い仕事のやり方がスポーツと共通すると感じています。ぶっつけ本番でお客さまに買っていただくことなんてありえません。ちゃんと提案を考えて練習して本番で結果を出す。出なければ振り返りを行って、また練習する。アスリートにはそんな一連の行動が身についているからかもしれないですね。もちろん、このような動き方ができる人であれば、スポーツ経験者でなくても歓迎ですよ。
やりたいことは、無理に見つけなくていい
今の就職活動ではいわゆる逆算型というか、あらかじめ目標やなりたい姿を持つことが奨励されている気がします。10年後にこうなりたいなら、今はこれをやる。というような…。
個人的には、別にやりたいことなんてなくていいと思っています。私自身、何かを始める時に、何かを成長させたいと思って始めたことなんてありませんから。目の前にいる人や部下に喜んでほしいとか役に立ちたいとか、そんな気持ちでしか動いてきませんでした。ジムの会長、喫茶店のオーナー、リフォーム企業の上司、元総長の後輩…。僕に良くしてくれた人、頼ってきてくれた人のために動いた結果が、今を作ってくれています。
人間って不思議な生き物で、誰かの役に立って喜んでもらえることが何よりのパワーになります。一度それを知ってしまうと止められなくなるんですよ。先ほど紹介した初任給で親御さんにプレゼントを送ってもらうこともその一つです。その積み重ねがビジネスであり商売の根源だと思っています。
残念なこと、日本経済は30年以上成長していません。自分が親御さんにしてきてもらった同じことを、自分の子ども返してあげる難易度が上がっているんですね。でもフューチャーリレーションを選んでくれた人には、それをさせてあげたい。人を喜ばせること、喜ばせるために必要な考え方や行動力を身につけること、そしてしっかり稼ぐこと。これができるようになれば、どこに出ても恥ずかしくない人になれると思っています。
長くなりましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。皆さん、どのような感想をお持ちになったでしょうか。この会社は違うなと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、それはそれで構いません。皆さんの就職活動が、皆さんにとって良いものになるよう心からお祈りしています。
そして万が一、古川の話を聞いてみたいという方がいらっしゃいましたらご連絡ください。皆さんのことを沢山教えてください。私も会社のこと、これからのことを皆さんと沢山お話したいと思っています。ご連絡お待ちしています。